しがない長女の備忘録

日々生きるのに必死

無意味なたられば

私は対面で自分のネガティブな感情を吐露するのが得意ではない。

だけど、無性にどうにもならなくて涙があふれてくる時がある。それは自転車に乗ってる時だったり、仕事中だったり、電車の中だったりと様々。

ここ一年くらいの涙の理由はほとんどがいつの間にか死んでいた父についての事だった。

いつか、そう、いつかは兄弟でああしてあげたかったとかそういう話を過ぎた話として何でもない事のように話せたらいいなとは思ってる。だけど、今はまだ難しい。

一番下の妹も今年三十になる。もうみんないい大人だ。

それでもまだ話せないのは亡くなって日が浅いのもあるけど、私が彼らを大人として扱えてないからかもしれない。

 

私は既に起こった過去の話に~だったら、~していればなどとつけて話すのが嫌いだ。だって、無意味だから。ただの懺悔や後悔の吐露でしかないから。

けれど、なんの後悔もせずに生きていられる人間なんていない。それが些細な事であろうと「あの時ああしていれば」と一度でも思った事はないという人間は稀有だろう。

だけど、嫌いなものは嫌い。だから、せめて口には出さないように心の中で呟く。その結果、どうにもならない感情が涙として現れる。

例えばこんな事をつらつらと書いていれば、否応にも父の事を考えてしまうから会社のデスクだというのに涙はポロポロと零れ落ちていく。

電車に乗っている時はさすがに焦った。この現象は特に父に思いを馳せてなくても急にやってくる。涙が出た事をきっかけに父への後悔があふれ出してくる。

父が亡くなってからというもの彼が好きだったものに触れるようにしているので、おそらく原因はそれだと思う。

 

私がもっと父を許せる余裕があれば——

あの時に父の好きな音楽について語ることがあれば——

もっと感謝の気持ちを伝えられていたのなら——

 

もういない人に優しくしたってなんの意味もないのに。そんなの自分の気持ちに落としどころを見つける為の行為でしかないのに。

どうして人間というのは失わないと気付けないのだろうか。どうして私は失わないと気付けない側の人間になってしまったんだろうか。

 

そんなの悩んで落ち込んだってしょうがないのに。

何か改心したところで父が戻ってくるわけでもないのに。

 

こんなに後悔でいっぱいなのに、私はまたこの感情を忘れるんだろう。

そして、失ってまた泣いて。生きるって面倒くさい。生きているだけで金は搾取されるし、多様性だとかなんだとか言ってややこしいことが増えていく。

それでも私は死ぬ気はないから生きるしかない。生きるために働いてお金を国に納めなければならない。余裕なんてものはないけど、それでも突然来るその日の為に毎日小さな思い出を作ろうと思う。

 

父が亡くなって思った事は何をするにも撮影者だったから、残された写真や映像が極端に少なかった事。だから私は思い出をおさめる為に様々な媒体を駆使してこの瞬間を残す事に努める事にした。

 

出来るだけ後悔を減らせるように。今はそれが私の人生の基軸。